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大病のオンパレード・・妻は大丈夫か!・・・③悪性リンパ腫の治療を終えて退院 やがて劇症肝炎に [病気・健康に係る出来事]

その年の12月下旬、無菌室での一連の治療が無事終わって、その日の午後、めでたく退院となりました。
長女が退院祝いにと、一人でご馳走を作り、ケーキを買って待っていたのですが・・・
妻は、無菌室での抗癌剤治療がよっぽどきつかったのか、その後遺症もあってか、全く食べられる状態ではありませんでした。
それでも集まった皆と、楽しく談笑したり、出来るだけ明るく気丈に、振舞おうとしているようにも見えました。
其のうち食べれるようになるだろうと思ったのがいけなかったのです。

ますます流動食の牛乳でさえ飲めなくなり、唯一お茶だけが喉を通る・・・そんな日が4~5日続きました。
早く気付けばよかったのですが、B型肝炎が発症していたのです。

一向によくなる気配が見られなません。
ますますおかしくなって行くではありませんか?やがてお茶もでさえ受付けなくなり、飲めるのはさ湯だけとなってきました。

年末だったせいもあり、年が明けてすぐ、またもや救急外来で病院に連れて行きました。
退院して10日目の事です。

この時、診察されて救急外来の先生があわてておられたのを覚えています。
血液検査の結果、肝臓の数値が3000近くあったのです。
即、入院する羽目になりました。
今度は内科の先生が担当でした。

 入院して、薬物・点滴等の治療を行いましたが、一向に良くなる気配がありません。

このとき肝臓の予備機能が、正常な人の40%位しかありませんでした。
この40%近くあったの予備機能値も、日が経つにつれ よくなるどころか35%・・30%・・へと下がる一方です。
担当の先生もギブアップ、やがて1月の中旬に集中治療室へと・・・
中央病院集中治療室.jpg
    島根県立中央病院集中治療室

 集中治療室では、主に血漿交換の治療が行われました。
しかし、効果が見られず、1日経ち・・2日経ち・・3日めへと経つにつれ予備機能の数値はますます悪くなっていきました。
 本人はというと、血漿交換の治療ががきついのか・・・  やがて治療拒否を口にすように、なってきていました。

集中治療室での治療は過酷を極めました。
まず血漿交換のための血液確保が大変であること!  なにしろ1日で約30人分の血液・血漿が必要なのです。!
 その他の栄養剤補給のため、また治療用点滴剤、監視用検査機器と身動きが出来ないほどの機器に
囲まれ。
静脈には10か所近くも血管に接続され、自由を奪われた状態になっていました。
 意識が薄れていく中で、身動きが出来ず、妻が私に思わず「もういいから」といったのを覚えています。
治療拒否を起こすのは当然だと思いました。
やがて妻の意識がだんだんとなくなっていきました。
そのままにしておくと「脳がやられます」と先生が言われる。
血漿交換メカニズム.gif
   血漿交換メカニズム

血漿交換装置.jpg
   血漿交換装置(イメージです)


「これ以上の治療法がないのか?先生が京大病院の先生と話をされていました。
やがて、輸血の同意書を求められ、「今から輸血を行います」といわれる。
同意書を書く間もなく、既にO型の血液が準備されていました。すぐ輸血が行われました。
輸血が行われるにつれ、妻の顔色も茶色からほんのりと赤みが増していくのがわかりました。
やがて、意識を取り戻しました。やがて状況が把握できたのか・・・はっきりと今度は「私 死にたくない!」とつぶやきました。
私は一言「絶対にどんなことがあっても助けてあげるから」と気休めに言ったのを覚えています。
この時はどう対処したらいいのか全くわかりませんでした。
輸血から、妻は小康状態を取り戻しました。

  関連リンク先      1   2   3   4   5   6   7   8

① 悪性リンパ腫と診断されるまで 
② 病名を告げられる 悪性リンパ腫と
③ 悪性リンパ腫の治療を終えて退院 やがて劇症肝炎に
④ 病名は劇症肝炎!!
⑤ 劇症肝炎が命取りに!救う方法は肝移植 不思議・・息子の血液型がA型からO型に?
⑥ 生体肝移植へ! 日本発の症例で 疑問視する人も? 
⑦ 手術が終わって やがてリハビリへ!! 意を決して退職!!
⑧ 大腸癌発症、手術
 
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